旅と史跡の記録

京都御所

京都御所・蛤御門

■概要■

江戸時代までの皇居。幕末期の史跡もある

境町御門

蛤御門

鷹司邸跡

和宮誕生地

清水谷家の椋

凝華洞跡

猿が辻

猿が辻

■見どころ■

文久3年(1863年)八一八の政変の際、この門の警護担当だった長州藩は、会津・薩摩藩に追い払われ、都落ちとなった。
蛤御門:元治元年(1864年)"禁門の変”の際にこの門の周辺で御所の警備にあたっていた会津藩・薩摩藩、桑名藩と、御所へ入ろうとした長州藩との戦闘が行われた。
清水谷家の椋:この付近で長州藩士・来島又兵衛が討死したと伝わる。
鷹司邸跡:禁門の変で長州藩士が藩邸に入り、火を放った。
橋本家跡:孝明天皇の妹・和宮の誕生地。
猿が辻:文久3年(1863年)攘夷派の公家・姉小路公知がこの付近で暗殺された。
凝華洞跡:江戸時代に仙洞御所があった場所。禁門の変の頃、京都守護職に就いていた会津藩主・松平容保は病を患い、朝廷への配慮もありここを仮宿舎にした。

■ガイドパネル■

蛤御門:江戸時代末期の1864(元治元)年、この門の周辺で長州藩と、御所の護衛に当たっていた会津・薩摩・桑名藩との間で激戦が行われました。この戦いが「禁門の変(蛤御門の変)」で、門の梁にはその時の鉄砲の弾傷らしき跡が残っています。この門は新在家門といわれていましたが、江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、「焼けて口開く蛤」にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったといわれています。
境町御門:1863(文久3年)8月18日、朝廷内の孝明天皇、中川宮、公武合体派の公家、会津・薩摩藩らは、三条実美ら激派の公卿7人と尊皇攘夷派の中心である長州藩を京都から追放する政変を起こしました。境町御門警備担当の長州藩が御門に集結した時、門は会津・薩摩藩兵で固められ、門内に入ることは許されませんでした。政変の結果、長州藩兵は京都から追放され、激派の公卿7人も長州に逃げ落ち、京都では一時的に公武合体体制が成立しました。
この大きなムクの木は、このあたりが清水谷家という公家の屋敷であったことから「清水谷の椋」と呼ばれています。樹齢は約300年といわれ、苑内でも数少ないムクの大木です。1864(元治元)年の禁門の変の時、長州藩士で遊撃隊(長州尊皇攘夷激派の一つ)の総督だった来島又兵衛がおの木の付近で討死したとも伝えられています。
鷹司邸跡:鎌倉時代中頃、近衛家からわかれた五摂家の一つです。江戸時代中期には閑院宮家の皇子淳宮が鷹司家を継ぎました。孫の政通は幕末期300年以上も関白を務め、九條尚忠へ譲った後も、内覧、太閤として朝廷で重要な役割を担いました。政通夫人は水戸藩主徳川斉昭の姉で、外国情報を早く知り得たといいます。1864(元治元)年の禁門の変では、長州藩士が邸内に入り、屋敷に放たれた火は、長州藩邸の火などとともにどんどん焼けと称する京都大火につながりました。
猿が辻:御所の築地塀が折れ曲がった部分の屋根裏に、一匹の木彫りの猿が見られます。烏帽子をかぶり御幣をかついだこの猿は、御所の鬼門を衛日吉山王神社の使者ですが、夜になると付近をうろつき、いたずらをしたため、金網を張って閉じ込められたといわれています。開国派とその反対派がせめぎあう幕末さなかの1863(文久3)年5月、公家で攘夷派の急先鋒の一人であった姉小路公知がこの付近で殺されたと伝えられています(猿ヶ辻の変)。

■観光情報■

所在地:  京都府京都市上京区京都御苑内 
アクセス:  地下鉄烏丸線丸太町駅徒歩約9分 
御朱印/御城印など:  - 
オフィシャルサイト: あり